日本人は「縁起」とか「ご利益」といったものを信じている人が多く、スピリチュアルな由来のあるパワースポット等も人気になりますよね。
六曜や土用の丑の日等、毎日の習慣の中にもジンクスや迷信のようなものが自然に溶け込んでいます。
営業マンの中にも、ジンクスを重んじて自分のルールを崩せなくなる人がいます。
今回は、そんな日本人特有の習慣の起源等を通じて、ジンクスや迷信の正体に迫りたいと思います。
六曜
不動産の契約や決済日には、六曜を気にする顧客が多いです。
六曜は、大安、友引、先勝、先負、赤口、仏滅の6つの運勢を当てはめるものですが、その起源を知っている人は少ないのではないでしょうか。
日本では、江戸時代に占いの類が大流行し、その種類はどんどん増えていきました。
占いを信じすぎて博打をする者が後を絶たず、社会問題にまで発展したそうです。
それを見かねた政府が占いを禁止することにし、当時のカレンダーから占いは消えることになりました。
占いを頼りに行動していた民達は、新しい指針を求めていました。
一方、占いを商売にしていた人達も仕事が減ってしまい、困っていました。
そこで、当時は誰も見向きもしていなかった「六曜」をカレンダーに入れることを思い付いた人がいたのです。
六曜は、元々は中国から伝わったと言われており、当時の日本ではあまり馴染みの無いものでした。
しかし、六曜ならば占いに該当しない為、カレンダーに載せて販売することにしたのです。
占いに飢えていた国民には、六曜が最も身近な指針となっていきます。
友引の意味は、本来は「何事も引き分けとなる日」でした。
現在のような意味になったのは、占い的な意味に寄せる必要があったからだと考えられます。
昔の人達が全く気にもしていなかった六曜は、商売人によって広められた他国の文化だったのです。
こうして起源を見てみると、「そんな事を信じていたのか」と馬鹿らしくなる人もいるのではないでしょうか。
しかし、日本では、既に多くの人がこれを重んじています。
ですから、馬鹿らしいと思っても、意味を理解しておく必要があるでしょう。
顧客が気にする以上は、営業側もそれに付き合うしかありませんよね。
なんともおかしな起源ですが、営業マンの一般常識として、六曜の意味を再確認しておきましょう。
- 大安 何事も成功できる日
- 友引 午前中は吉、昼は凶、午後は大吉
- 先勝 午前中は吉、午後2時から6時は凶
- 先負 午前中は凶、午後は吉
- 赤口 午前11時から午後1時までが吉で、それ以外は凶
- 仏滅 仏事を除く大凶日
ジンクスと迷信
日本に広がる数々の迷信の起源を探ると、多くの場合は「縁起」が関係しています。
特に、江戸時代の人達は、ダジャレ的な感覚で縁起を担ぐ傾向があり、元々は何の意味もない語呂合わせから始まっていることが多いです。
例えば、スルメをアタリメと呼ぶようになったのも、縁起を担いだ事が原因だそうです。
『掏る』(スル)という言葉は、賭博等において縁起が悪い言葉だったので、『当たり』に差し替えて縁起を担いだのが始まりだそうです。
これって、現代で言えば、競艇とか競馬場にいるような人達が考え出した造語ということです。
土用の丑の日にウナギを食べるようになったのも、ウナギが売れなくて困っていた商人が平賀源内に相談したのが始まりです。
平賀源内は、江戸時代に有名だった知識人で、発明や医学に精通していました。
源内は、「土用の丑の日は鰻を食べる日」というキャッチコピーを与えたわけです。
それまでは、誰もやっていなかった習慣ですが、流行し始めると「うちもやってみるか」という事になることを見越したマーケティング戦略です。
この発想は、バレンタイン、クリスマス、豆まき、節分、クリスマス等、各業界がこぞって真似をしてイベント化する流れを生みました。
毎年、定期的に顧客をリピートさせて利益を生み出す、商売人の知恵です。
現代においても、「流行させる」という戦略はとても有効な販売手法として使われ続けていますよね。
誰かが流行させ、それが習慣となり、いつしかそれが文化になるのだと思います。
真面目な日本人
言葉や習慣の起源を探ると、どこの誰が言い出したのかも分からない事を守り続けている事に気付きます。
しかし、それでも日本人はたくさんの習慣を捨てずに来ました。
真面目な国民性なのか、一度始めてしまうと、やめられなくなる真面目な性分のようです。
私は、初詣も行きませんし、自分の埋葬についても仏教形式でなくて良いと考えているくらいです。
最近では、家族葬とか自然葬等という形態の埋葬方式も増えてきましたよね。
個人的には、とても良い変化だと思っています。
日本は、戒名、葬式、法要といった事に対して、当然のようにお金を払う国です。
グローバルな視点で考えると、先進国とは思えないような儀式が多い国だと思いませんか?
死者に対する考え方は、国によって様々ですが、死んでからもお金がかかるシステムになっている国は少ないように思います。
本当に仏の供養を考える宗教ならば、死んだ人に名前をつけるだけで高額な料金をとることも、読経で数十万円ももらう必要もないでしょう。
そもそも、宗教法人は、法人税がかからないのですから、あまり高額な料金をとるべきではありませんよね。
何のために免税されているのかを見失わないで欲しいものです。
全国の神社仏閣を見てもわかる通り、とても収益率の高いビジネスと化しているのが実際の姿です。
『ご利益』と称して、最も利益を得ているのは誰なのかを考えれば、答えは明白なのではないでしょうか。
目に見えない力
迷信やジンクスの根拠を求めるのは、ナンセンスと言われるかもしれません。
世の中には、目に見えない力とか、現代の科学では説明のつかない事象があるのも確かです。
私自身、スピリチュアル的な体験や、UFOの目撃等をしているので、全く信じていないわけではありません。
しかし、迷信には、昔の人が駄洒落や縁起担ぎで考案したものが多いのも事実です。
商業的な意図でつくられた文化もたくさんありますよね。
大切なのは、「目に見えない力」なのか、それとも「昔の人の習慣」なのかを見極めることのような気がします。
まとめ
海外では、墓地を通るときには息を止める文化があると聞いたことがあります。
日本人から見ればおかしな文化でも、彼等には習慣化したジンクスになっているのでしょう。
これと同じように、現代には必要のない迷信もたくさん存在していると思います。
あまりにも当然になってしまった事も多く、自分たちの文化を客観的に見ることは難しいかもしれません。
でも、本当に必要な事かどうか、時には客観的に再確認してみてはいかがでしょうか。